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2017/07/23

JR浜松工場一般公開(なるほど発見デー)

今年は良く出歩いています。仕事が楽になったのと、子供の週末のサッカー教室をやめさせたので、時間が取れるようになったこともあるんですが・・・

Hamako201701

それはさておき、久しぶり?に浜松工場に行きました。

新幹線なるほど発見デーです。  工場がRNということでもうないのかな~、と思ってのですが、今年はありました。

久しぶりに18きっぷを買いました。3回これで使って、2枚をハムフェアに回すたくらみです(笑)

座れるのかなと思ったのですが、結局浜松まで立ちんぼうになってしまいました。こりゃいかんと思いつつスマホイジリでなんとかやり過ごし・・・・(笑)

 

Hamako201702

工場はまだ建て替え中という事であんまり自由には歩けませんでした。

人の多さは相変わらずで。そろそろ子どもを連れていけるのもあと数年、ということで親も楽しんじゃいます(笑)

 

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しかしドクターイエローを神格化してしまった?こともありなんか違和感があるのも事実。軌道検測車なんて昔からあるじゃんか・・・と思いつつはあ、、、と思って歩き回りました。ダイエット、ダイエット、、、、(謎w

 

Hamako201704

 

新幹線って車両バリエーションがないので、見せる系は苦労しているようでした。特に在来線の骨董品を名古屋港にもっていってしまったのでなおさら、という感を受けます。(まあリニア館は1時間もかからないところにあるのでいいんですがw)

 

Hamako201705

工場はめっちゃキレイになってました。近代化すごい!の一言。よくJR東海は(ほかの鉄道会社に比べて)遊び心がないみたいな言われ方をするんですが、僕は安全運行第一で、しっかり稼いで、国鉄の借金を確実に返してください(それを知らない人が多くなっているのは個人的にはちょっと残念なんですが)ネ、という所なんですけど、、、

 

Hamako201706

それはさておき、なんとか食堂で飯にありつき、鉄道グッズそれなりに買って、タクシーで戻って(今回も行き帰りはタクシー。家族連れならこれが確実です)、春華堂本店でうなぎパイのお徳用を買いこんで、また浜松から立って、豊橋からやっと座って、名鉄百貨店でなぜか北海道展によってくりーむ童話のジェラートを喰って帰ってきたのでした・・・・

 

2010/09/19

【思い出の鉄道写真館】 18きっぷでロングラン乗りつぶし【20年前の話】、の巻

このページ(記事)は本館の「鉄道趣味の部屋」のHTMLページを移植したものです。日付、文章等は作成当時のもののままとなっていますのでご了承ください。なお情報などは作成当時と異なっている場合がありますので閲覧参考程度にご覧ください(記事に基づく行動判断につきましては、当方は一切責任を持ちませんのでご了承ください。(2025-8月移植)

 

またまた過去帳の話です。

1989年12月28日の話です。え~っと、何歳の話でしたっけ?(笑)

 

そのときは、まだバイタリティーがありました。
夜行何日連続とか平気でした(笑)

時刻表をぺらぺらめくって、今回は乗りつぶし何キロ制覇しようとか、18切符の費用対効果を確かめつつ戦略を練ったモノです。

このとき、ワタシはこういうルートを取りました。

【自宅→名古屋→塩尻→飯田線前線走破→塩尻から名古屋→大阪(ML九州)→別府→大分→あそBOYに乗車→博多から山陰臨時夜行(ビッグスキー大山号)で宍道→木次線で山越え→福塩線→新大阪→臨時夜行で紀伊半島一周→自宅】

なんていう横着な事をやってしまいました。

#いまでは夜行快速、定期夜行快速などの廃止により、こうしたつなぎをすることは不可能になっています。もっとも移動だけであれば会員制格安夜行バスの台頭により18きっぷははその存在意義を失いつつあるというのも現実なのですが。

 

さて、旅の行程に入りましょう

【関西線始発9920M→名古屋→中央線723M、827M→塩尻9156M→辰野236M→天竜峡632M→豊橋】

飯田線を全然走破するのは、に上るのは朝のおきまりの列車・・・というのは変わらないパターンです。
が、このときはつなぎを第一に考え、南下乗り継ぎコースにしました。
このとき関西線、中津川から北、は165系でした。関西線の一番冷房が涼しかった、暖房が心地よかった時代です(笑)
この頃の時刻表は9000番台の列車番号がいっぱいありました。取りあえず運行してみて、あかんかったら運転取りやめ、という建前でした。(いわゆる国鉄時代の末期に「α列車」と呼ばれ、αマークが時刻表にいっぱいあった次代の名残ですね。

 

19891228_119_honnagashinino03s

一番目の写真は天竜峡駅での一こまです。
またまた押し入れのネガから起こしたのですが、最初ネガにデータをつけていなくって。たしか本長篠かなぁ、と思ったのですが、グーグルの航空写真や地図を見てもどうも違う。
でもハッと思ったんですね、写真に「キロポスト」が写し込んである。
116.3キロ。時刻表で見て、この写真は天竜峡で撮った、というのがわかった次第です(笑)

曖昧な記憶のが一気によみがえってきました。
よく考えてみれば旅ノートをつけていたので、列車番号なども克明に記録してありました(笑)

【豊橋1636→蒲郡1655/1704 1153M新快速→大垣543M→米原3699M新快速→京都2015/2122(9231 ふるさとライナー九州)】

豊橋からは東海道線を乗り継いで、今日の宿にする博多行き夜行列車につなぎました。
その頃、まだ311系が走り始めたのですが編成数が足りなくて新快速は蒲郡止まりでした。
新快速が311系で遂に120Km/hの運転を開始、でJRが名鉄に対して反撃を開始し始めた頃でした。そうすると、311系ももう20年以上走っているわけです。時代はかなり流れているのかな。

 

(9231)→小倉525M→別府(駅前高等温泉で一風呂)2327M→大分2736D→三重町2740D→豊後竹田756D→宮地 まで】

この頃、大阪から九州方面の夜行は寝台特急か、阪急・西鉄バスの「ムーンライト」しかなかった時代です。
夜行バスがドリーム号、東北急行バスがその代名詞だった時代です。まだシュプール号がバンバンだった時代です。懐かしいですね(笑)

そのとき乗ったのは、オハ12 16 と記録があります。
12系はもうSLきたびわことか、やまぐち号くらいでしか乗れませんね。もう12系客車もほぼ過去帳時代なのです、実質的に。

小倉で日豊線に乗り継ぎ、別府までいって「駅前高等温泉」に入ります。
駅前で温泉に入れるというのは貴重だったため(現在みたいなクルマがあるわけではなかったため)迷わずストップオーバーで汗を流しました。

#ネットで調べて見ましたが、現在も100/300円で入れるみたい・・・・ですね。

19891229_oita_455_g3ss

2枚目の写真は大分駅での光景です。
いまはどうか知りませんが、当時近郊電車は私鉄に習って頻発運転での乗客獲得に力を入れ始めた頃でした。【写真】のように「タウンシャトル」とか愛称をつけたり、ヘッドマークをつけたりとか。車両更新もままらない頃でしたから、今考えればこのようなアピールが精一杯だったのかも知れません。
(写真をよく見えればわかりますが、サボ(行き先板)もここからどこに行って、折り返してここまで、なんていう運用上の都合で挿した、というモノが当たり前のようにさしてありました。どっちに行くかわからない人にとっては不親切きわまりない表示とも思われかねない表示なんでしょうが(笑)
写真の急行型電車は数年前に姿を消したそうです。けど関西線や東海管内ではすでに姿を消していましたので、結構長い間使われていたはずです<九州管内では。ちなみにまだ北陸線では現役で走っているらしいですが、国鉄継承の急行型電車が姿を消すのはそう遠くない将来のはずです。記録に収めて乗りつぶししておいた方が良さそうですね(^^)

大分からは・・・・小刻みに列車を乗り継いでいきます。
キハ40、58、52 と乗り継いでいきます。きは58は高山線の富山口が最後、キハ52も大糸線で最後、国鉄から引き継いだ気動車でいま乗れるのは系列からすると指折り数えて10あったら足りるのかなぁ、と計算してしまうくらい少なくなりました・・・よね(笑)

19891229_miyachi_asoboy_s

【宮地1433 8710 あそBOY→熊本1716/1944 9836 米子行きビックスキー大山号→】

このとき・・・・各種行程をつないで最大効用を求めよう、という本能が備わっていたのかも知れません。
この日のメインイベントは当時復活した「あそBOY」に乗ることでした。

取ったのは1号車1A とかいう後方展望がぶり付き。上りで取るというのも確実に乗りたいという本能からだったのかな(笑)
けど年末の上り列車・・・ということで気合い入れて指定券取ったのにガラガラでした。鉄ちゃんしか乗っていなかった、と記録にあります(^^)


#この後ハチロクは一端引退してしまうわけですが、まさかその後復活(人吉で)するとは思っても見ませんでした・・・。

3枚目の写真は上り始発駅の宮地駅での光景です。キハ52にあそBOYですから、もう見られない光景ですね。

熊本からは・・・シュプール号と同じ位置づけで一時期運転されていた「ビッグスキー大山号」なんていう列車の人になりました。
当時まだスキーはトレンドのレジャーでしたし、JRもこぞってシュプール号を運転していました私はスキーはしませんが、あの頃の一大スキーブームはいったい何だったのかな・・・と思ってしまいます、はい(笑)。ブーム、というものはそういうモノなのかな・・・とも思ったり。 


熊本駅で何をするわけでもなく2時間半つぶして、ビックスキー大山号の人となります。
そのときの編成、ED76 68に12系5両、14系(寝台)が2両。てっきり座席は14系だったと思っていたのにだまされた~?!と思ったモノです。しかも電源車が故障、
したり、車掌さんが列車のこと把握していなかったり(笑)(と、記録が残ってます(^^;)

 

☆おまけ

Bigski_daisen_2 Bigski_daisen_1

当時から鉄道パンフをコレクションするのがライフワークとなっていました。
いま暮らしている家がマンションですので紙媒体はスキャンデータとしてデジタルデータにしてしまいましたが・・・・・

押し入れのCD-ROMの中に、こんなデータが残ってました(^^;

 

まさか20年以上たって使う事はないと思ってませんでしたし、登用したタレント(酒井法子女史)がその後皆様御周知の事実となってしまった、という事実は残念でなりません。詳しくはコメントしませんが・・・・。

 

2010/09/06

【思い出の鉄道写真館】 急行「奥飛騨」号

このページ(記事)は本館の「鉄道趣味の部屋」のHTMLページを移植したものです。日付、文章等は作成当時のもののままとなっていますのでご了承ください。なお情報などは作成当時と異なっている場合がありますので閲覧参考程度にご覧ください(記事に基づく行動判断につきましては、当方は一切責任を持ちませんのでご了承ください。(2025-8月移植)

 

以下の話は・・・・・記事を書く20年も前の話です。
1990年8月6日の話です。
そのときは・・・う~ん、何歳だったでしょう、ちょっとヒミツですね(笑)

#ああ、この日はうちのヨメさんの誕生日でもあったりします、この日、嫁さんはまだ「女子高生」でしたね(爆

で、もとい。
確かそのときはまだ「大学生」でした。これは間違いないです。その頃は大学生になって、アルバイトをしてそろそろお金も自分で少しですが稼ぐようになり、ちょっとずつ遠出をするようになってきた頃でした。

大学に入って1年目は貯金。
(ハンバーガー屋で、時給はまだ500円だった時代です!(笑))
バイトをしてまず免許を取りました。
これはセオリーコース。
次に一眼レフのセットを買いました。
当時まだレンズ内モーターの信頼性がなくてペンタックスをカメラ屋に勧められそのセットを担いで写真に取り組み始めた頃でした。
(まだリバーサルなんかにはハマる事はなかったです。お金もなかったし・・・)

あと・・・・まだ一緒に行ってくれるカノジョもいなくて、さすらいの旅のお供はカメラキットだったのさ、という年頃でした(笑)

#その後20年たち、家庭も持ち、子供にも恵まれ、マンションを買い、ごくごく平凡な家庭生活をしています(基盤はもろいですが(爆)。若いコロの出会いへの危惧感は杞憂、だったということか(謎

【館長、ヒトリでユーロピアでアルペンルート縦断をする】

 

19900806_ngo_sta_okuhida_h


(写真は1989.08.06、名古屋駅11番線。実は乗車位置表示が上についた以外は、ほとんどこの光景は変わっていないのです、近い将来、名古屋駅は実は化石級の産業遺産になる素質十分ありです(爆))

身軽にひとりでお出かけと言うことで、このときは「ルート周遊券」を買いました(話は後述)。

列車もあれこれ考えて・・・・周遊券では区域内まで特急は追加料金だったので一ひねり、当時まだ走っていたユーロライナー+色だけかえた「ユーロピア」で編成された臨時「急行奥飛騨号」で出かけることにしました。自由席ついているし、これで高山まで行って、富山まで普通でいって、地鉄で立山、駅近くに当時あったYH(YH杉田)に投宿して、朝一番で撮影しながらアルペンルート縦断、と考えたのです。

当時の写真を上に貼りました、行灯マークも用意されなかなかの待遇だったようです。もっともこの直前に投入されたワイドビュー(ひだ)の補完の意味合いもありました。
けどガラガラだった覚えがあります(笑)
いまでこそ列車はごく一部を除いて移動手段、しかもいかに早く快適に移動するか、というのが第一目的ですが、あの頃はまだ移動を楽しむ、なんていうゆとりがあったと思います。もうこの編成も廃車で組まれることもない光景ですが・・・・。

 

【専用機関車だった】

19900806_ngo_sta_okuhida2_h

ユーロライナーには「専用機関車」というのがありました。
この日もキレイな編成美の「奥飛騨号」でした。

専用塗装車は何台か塗り替えられていますが、専用(優先運用)としたのはJTではユーロが最初、という話だったようです。
この日はDD51の1037号でした。
ちゃんとヘッドマークがつけられるようになっていますネ。

#ちなみに一番見かけたのは、ちくまにタンカーに何でも常時引いていた?EF64-35と66号でしたが。

いま専用(というか優先)である、というのはトワイライトのEF81、先日替わった北斗星・カシオペアのEF500、くらいでしょうか(貨物の高速貨物Aはあれじゃないといかん、というのは別)趣味記録的には結構貴重な部類にはいるのではないかと思います。

けどユーロライナーとかユーロピアとか、よくハンドル訓練とかにも使われていたと記憶しています。客扱いもないのにハンドル訓練とかでよく走っていたのを見かけました。引っ張るモノがありませんからコレを使わないと従業員教習も出来ないのも実情でしたからね・・・・(笑)

いま機関車を使うといったら、DE10が工臨を引く(しかもこの前見ましたが、キヤ97の無動力を牽いている=必要なところまでを牽いてきて、自力で走行した方が性能的にいいところはキヤ単独で走っていくのだから機関車も哀れな存在なものです。将来的にはEC、DCの運転士だけの時代が来てしまうのでしょうね。。。

【まぼろしの光景は続く(笑)】

列車に乗り込み、その頃は写真のロケハンを兼ねていこうと思ったのでどこで写真を撮っていこうか、と考えつつ揺られてました。
岐阜では今ではもう見られない光景も撮ってました。スキャンをしながら「ああ、そういえばこの光景は絶対撮れないわ」、と思いつつネガを取り込んでました。
岐阜では機回しが必要でしたのでかなり時間があったような。ワイドビューでさえ高速道路の驚異におびえてダイヤカツカツなのに、今では考えられないゆったりさです。

撮ったのは「奥飛騨」とボンネット「しらさぎ」の並びです。
(下の写真。)

19900806_gifu_sta_okuhuida_h


気がつけばもう485系ボンネットなんて過去帳なんですよね。485系がもう絶滅危惧種?になりつつあるご時世です。
普段から記録写真は撮っておきましょう・・・(笑)

 

#20年たってもこのレベルの写真を起こせるのですから 銀塩写真はたいしたものです。取り込みデータはかなり青に傾いていましたがこれはスキャナとの相性の問題でしょう。多少退色は補いきれない部分もありましたが、くどくない程度に補正をすると左のような写真まで持って行くことが出来ました。

☆余談ですがこのあと数年後からデジカメに移行してしまいましたが、20年たってデータを完全に呼び起こせるかちょっと不安。2重バックアップは取っていますが・・・。


ワイドビューシリーズはすでに20年が経過】


19900806_sakahogi_kiha85_02h

このとき、すでに高山線はキハ85が投入されていました(写真上)。
華やかな時代の始まり。たしか高山本線のキャンペーンが「メタモルフォーゼ高山線」とかいって大々的にキャンペーンが組まれたのを覚えています。バブリーな時代でしたし、広告も結構大々的だったと思います。

けど思えばもうそんな時代から20年も経過しているのです。気動車の機関はすでにカミンズオンリーですし(たしか)、20年間たいしたトラブルもなくカミンズエンジンで幹線スジから末端までぶっ飛ばしている時代です。
この年になって思う、時代の流れはあっという間。記録はちゃんと取っておきましょう・・・・ね(笑)

 

【過去帳のきっぷ、ルート周遊券】

19900806_route_syuuyuukenn_503h

このとき使ったのは、もう覚えている人はだいぶ少ないと思います、国鉄時代からの継承品「ルート周遊券503」でした。
ルート券は数種類ありましたが、いまの「立山黒部アルペンきっぷ」(昔は立山黒部アルペンレジャーきっぷ、と言った時代もあった)の前身です。

写真のナンバリングを見て欲しいのですが、ナマ券でメルサ旅行センターにて、JRになってから3年で僅か16枚しか出ていない!切符でした。

価格は学割で158600円。
高山線でも北陸線でも同価格、という設定でした。
いまのアルペン切符には学割はありませんから結構値打ちに行かさせてもらいました。
なにせ有効期間が発売日から1ヶ月有効(いまのトクトクきっぷのように使用開始日ではないことに留意。)なんていう太っ腹なきっぷ。ルート内は順に使用、という制限はありますが(いまの企画乗車券は域内フリー、経路外途中下車は例外以外不可だったはず)帰りに途中下車しても良かったはずでした。(他の周遊券も同様)

しかし今思えば売れてなかったんだろな・・・と想像します。
(周遊券といいつつ、JRや国鉄の窓口では買えなくて、JR券の取り扱いのある旅行代理店の店頭で買うしかなかったのです、ルート券に関しては。なのでメルサ旅行センターで買ったのです、はい)。

アルペンルートそのものがパッケージ向けですし(個人では高価で行きにくい)、個人で企画乗車券と宿泊を組んでもどうでしょう、35000円くらいはかかってしまうのではないでしょうか。
このときも帰りの松本からだけ特急にした覚えがあります。YHを使ってやっとびんぼーずにふさわしい旅になったと記憶しています。
この後ルート券は整理が行われ廃止、周遊券制度も「周遊きっぷ」と制度が変わり、かなり使いにくいモノになってしまいました。

ここに出てきたモノはほとんどが過去帳のモノばかりです。
(形として残っているモノは、名古屋駅の光景とキハ85くらいですネ)

こうして書き起こしていると多感な頃に旅を一つずつつくって記録として残しておいてよかったなぁ、とつくづく感じる次第です。
皆さんも旅の記録はくだらないことと思っても残しておきましょうね・・・・(^^)

(2010.09.06記)

2010/01/01

【思い出の鉄道写真館】深名線(7)=駅ノートの想い出=

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いつからしか・・・・・


深名線に通っていた人で、末期の2,3年ころに通っていたならピン!とくる話だとは思いますが、各駅に落書きノートが置かれていたのをご存じな人は多いと思います。

各駅をくまなくめぐりましたが、ほとんどの駅ノートが置かれ、自由に書き込みをして下さい、っていう風になっていました。
どのノートも文面では地元の人が置いていった様に書かれていましたが、果たして鉄道ファンが置いていったのか、本当に地元の人が置いていったのか、そんな事はは私の知る所ではなかったのですが・・・

撮影や列車待ちの間にノートをめくりつつ、いろんな所から来た旅人さんの想いを見ているだけで楽しかったものでした・・・・。

(写真は宇摩駅)

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ノートの最初の走りは・・・・・

ちょっと最初のノートの書き出しを、失礼ながら一部書き出してみました。(以下、原文そのまま)

「かつて道内には仮乗降場という駅に似たものがたくさんあった。ホーム一本と、小さい待合室だけで、正に乗降場と云うものであった。全国版の時刻表には載らず、道内版の時刻表だけに載っていた。中にはその道内時刻表にさえ載らずに消えていった仮乗降場もあった。国鉄からJRになる直前、仮乗降場は全て駅として認められたが、内容的には仮乗降場とは何ら変わらなかった。しかし、ある元乗降場は、立派なホームと立派な待合室が立ち、見違えるように変わった。またある元乗降場は、国鉄時代の旧い待合室をこわし、新しい物置改造の待合室を置いた。だから仮乗降場と呼ばれていた頃の待合室や、ホームが残るところは極端に少なくなっている。しかし、この下幌成は、多少手は加えられているものの仮乗降場と呼ばれていた頃の姿を色濃く残しているように思える。だがしかしである。
だがしかし、ここにも駅への落書きがある。その落書きをするのは1回限り、ここに来る旅行者である。時には目をそむけたくなる様な事も書かれている。落書きする人々は、一体どんな気持で書いているのだうか?毎日利用する人々の事を考えたことはないのだろうか。
深名線は全国でも珍しく旧い形を残した鉄道である。駅も風景も、そこに走る汽車さえも、できればこの光景をいつまでも残してゆきたいと思うし、残していって欲しい。だかそれらは一部の心ない人々によってくずされていく、それはものすごくさびしい事だし、腹立たしいことである。
いつまでもこの光景を残してゆきたい、そんな思いにこのノートが何か役に立てば・・・と思います。」

とありました。

撮り歩いたのは1994年ですので、正式に廃止が決まるちょっと前だったと思います、なもので文言のにニュアンスが廃止直前とは少し違うのはお分かり頂けるとは思いますが・・・

(上は下幌成、下は円山))

 

Shinmei_note4

「旅古里を大切に」

なんかいい響きなので取り上げてみました。

旅ふるさと-自分が旅に出て、ほっと出来る場所、ありますか?何度も行ってしまったりする場所、きっとどこかにあるとは思うんですけど・・・・

自分にとって、いま思うと北海道ではいろいろとあるんですけど、深名線沿線もそう言う場所のうちの一つですね。何もないのに行っちゃって、何気なしにルオンド入っちゃって、朱鞠湖湖一周しちゃったり、とか(笑)

鉄路が無くなっても、何度か行ったりしました。確かに鉄路が無くなって、自分としても気が少し抜けちゃったような所もあったのですが、やはし行けば行ったで、自然に足が向いてしまうところがあったり。そんなのがきっと「旅ふるさと」なんだと思います。

あなたの旅ふるさとってどこですか?
自称旅人な人ならきっとありますよね、きっと・・・。

 

 

【思い出の鉄道写真館】深名線(6)=モノトーンの世界・駅とその光景編=

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Shinmei_mono1

(宇摩駅)

最初に紹介するのは・・・・なんてことない写真なのですが、思わず
懐かしくなってしまう人もいるんじゃないかな、って事で持ってきました。

文章を読めばそれはごもっともな話なのですが、こんな事駅では
このご時世書いてありませんよね。けどこういう看板を見ると、
みんなの物は仲良く大切にいつまでも使いましょう、っていう
ごくごくありふれた、あたり前のことを思い起こさせてくれる・・・・
タイムトリップした世界から現世の人たちに語りかけてくれる、
そんな光景が深名線には生き続けていたのでした・・・・・・

 

Shinmei_mono4

使われることのないタブレット置き場。
深名線で交換できたのは、末期は
幌加内・朱鞠内の2カ所だけでした
(この写真は鷹泊駅で撮影)。

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(上多度志)

まるでサッシじゃなきゃ「北の国から」に出てきてもおかしくないような
帆立小屋みたいな駅舎。けど、小さいながらまちの玄関だったんです。
大切にされてきたからこそ、長い間生きながらえることが出来た駅舎。
懐かしい世界が広がっていました・・・・・

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(円山)

たった1両も止まれない、盛り土だけのホーム。生い茂る夏草たち。
どこまでも続く、いろんな思いを乗せて走っていたまっすぐな線路。
昔ならどこにでも見られた、「ハエタタキ」。まるでそこは
鉄道の原風景を見ているような光景でした。今ではもう帰ってこない
懐かしの光景です・・・・・

 

 

【思い出の鉄道写真館】深名線(5)=モノトーンの世界・列車とその光景編=

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(旧白樺駅付近)

深い森の中。遠くからディーゼルエンジンの音が聞こえてきました。
人気の全くない原生林のに人間が存在感を示す瞬間(とき)がやってきました。
やってきたのは、老いぼれた改造DC。北の厳しい大地でその人生を過ごし、
最後の勤めをほとんど手つかずの自然の中で終えようとしていた老兵がやってきました。
時代に取り残され消えゆく運命にあった鉄路と、最後の奉公をしている老兵。
時代の流れとは全く違う異空間がそこにはありました。

しかし異空間というのは、それすなわち時代の日常的光景ではなかったということ。
やがて消えゆく運命というのは否定できない事実だったのでした・・・・

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(朱鞠内)

凍てついた鉄路。そしてたった1両の気動車。1日数本の列車と数少ない乗客たち。
車社会がもし来なかったら、こういう光景はいまでも続いていたのかも知れません。
しかし、時代は流れゆく物。道路の発達に伴って、冬には鉄路も、駅舎も、すべて
深い深い雪の中に閉ざされてしまったのでした・・・・・・。

Shinmei_mono8

(朱鞠内 キハ53-500)

凍てついた鉄路では足周りもこんな有様。雪の固まりを巻いて走っている様な物でした。
さぞかし足取りも夏より重かったことでしょう。老兵キハ53-500には過酷過ぎる
労働だったことでしょう・・・・・・・・
けど乗っている分には、冬は雪があらゆる音の反射をかき消してくれるので
滑るような感じの旅路でした。聞こえるのはカラカラと回るエンジンの音のみ。
タイムスリップした様な駅の光景、原世界の広がる車窓。すべては
過去の物となってしまったのでした・・・・もう、戻らない・・・。

Shinmei_mono9

(北母子里)

雨の日の北母子里駅。今日の夕方の最終・朱鞠内行きです。
何もない原風景の中を、人が創った時代(とき)の軌跡をたどるように
たった1両の気動車が走っていた光景・・・・・・
何もかもが懐かしい鉄路の「あの日の光景」だったのでした・・・。

 

 

【思い出の鉄道写真館】深名線(4)=The SCENE~冬の情景 その2=

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(添牛内)

厳しい冬。耐えているのは車両や人間だけではなく、
駅も同じです。一日数人しか乗らない駅であっても、駅は人と鉄路と、
その先の目的地へと行くための重要なゲートウェイ。
ちょうど添牛内や朱鞠内周辺などは、沿線でも雪が一段深いところで
日本海からの雪雲が容赦なく雪を降らせるところです
この日も激しく横殴りの雪が降っていた日でした・・・。

Shinmei_winter8

(北母子里~天塩弥生)

夜の帳も下りて・・・・といいつつも、北海道の冬ですから、だいたい
時間は察して頂けますでしょうか、そんな時間の母子里の踏切です。
この日、このときもこの場所で踏切を待っている人も
車もいません。いや、待って居なければならない様な状況の方が
たまたま運が悪かった?ような光景だったのかも知れませんね・・。

Shinmei_winter9

(朱鞠内)

深名線を語るに於いて、忘れてはならないのが「特雪」の存在でした。
たった1日数本の列車のために、ラッセル車、ロータリー車が多くの日に出動し、
辺境の鉄路を守ってきました。この魅力に惹かれて、
冬の深名線に通った、っていう人も多かったと思います。

Shinmei_winter10

(朱鞠内)

特雪は「列車」ですから、たとえ除雪目的であっても、タブレットを携えて
運行されていました(今は小回りの利くMR=除雪用モーターカーが幅を
きかせていますが)。
来るのはその時によって、ラッセル車であったり、ロータリー車であったり
しました。

深名線沿線は人口希薄なところですから、雪も排出時は思いっきり遠方
に飛ばしていました。そういう光景を鉄道誌なんかで見られた方も多かっ
たのでは・・・・

 

どちらかといえば、純白の世界の方が個人的には好きでした。
そんな鉄路も、今は冬になれば深い深い雪の中に埋もれてしまう・・・・




想い出は、けがれ無き白い世界の奥深くに、静かに眠るように・・・・・

 

 

 

【思い出の鉄道写真館】深名線(3)=The SCENE~冬の情景 その1=

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Shinmei_winter2

(朱鞠内)

長い長い冬。
深名線沿線は、10月末には初雪が降ることもあるような場所を
走っています。
また沿線は日本一寒いところを走っている事でも有名でした。
ご存じ、日本一寒い気温(-41.2度)を記録したのも、深名線
沿線の母子里というところでもあります。
雪が降っている時は放射冷却が起きないから、まだ暖かい方。
冬晴れの寒く冷え込んだ朝には幻想的な「ダイヤモンドダスト」を
見ることが出来ます。

写真は朱鞠内で撮影した物。厳しい北国の、厳しい鉄路の情景を
感じ取っていただけますでしょうか・・・・

深名線は末期は寒冷地向け急行形・キハ56を両運転台に改造
したキハ53-500番台という車両が単行で運転されていたので
すが、それまではたとえお客が数人であっても、空転や万が一の
事を考えて、必ず2両か、あるいはキハ54の2エンジン車両で運
行されていました。
キハ53-500は56系の残党ということで、床は温もりの残る木の
造りでした。一昔前の、温もりの感じられる鉄路のささやかな演出
だったのかも知れません・・・。

Shinmei_winter3

雪晴れの母子里・R275踏切の光景です。
朝2番の名寄行き単行が向かってきます。
私が通った中で、冬晴れのこのような光景に出会うことは希な方でした。
雪晴れの光景は写真の露光がすごく難しく、多少山勘を働かせないと
確実な写真をおさめられないっていう事もあるんですが・・・
今となってはびくびくしながらもたのしい想い出でした・・・

Shinmei_winter4

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(3枚とも 北母子里)

深川から99キロちょうどたどったところが、「日本で一番寒いところに[あった]駅」、
北母子里駅でした。一日上下3本しか列車の来ない駅。
しかしなんか惹かれるところがあって、気が付いたら何度も通っていました。

最終列車が来るのは、午後の8時くらいだったでしょうか。
待つ人もなく、降りる人も果たしてあるのかわからないのに、
まだ見ぬお客さんを守り、迎えるために、駅はこうこうと明かりを照らし、
生き続けていたのでした・・・・・

【思い出の鉄道写真館】深名線(2)=The SCENE~ようこそ、深名線の世界へ=(2)

このページ(記事)は本館の「鉄道趣味の部屋」のHTMLページを移植したものです。日付、文章等は作成当時のもののままとなっていますのでご了承ください。なお情報などは作成当時と異なっている場合がありますので閲覧参考程度にご覧ください(記事に基づく行動判断につきましては、当方は一切責任を持ちませんのでご了承ください。(2025-9月移植)

(写真はクリックすると拡大します)

 

Shinmei_scene07

(朱鞠内)

転轍機のてこ。古き良き時代の鉄路の光景。
最後まで守り通してくれたのも深名線でした。

Shinmei_scene08

(朱鞠内)

腕木式信号。頭を垂れれば進路が開けた証。
けどそれは一瞬だけのこと・・・・でした。

Shinmei_scene09

(政和~添牛内)

誰もいない、どんよりとした寂しい中を行く
たった1両の気動車。旅人はこの光景を見て
何を想ったのでしょうね・・・・

Shinmei_scene10

(北母子里~天塩弥生)

白樺の林の中を行く列車。北海道らしいと云えば
それまでの光景ですが・・

Shinmei_scene11

(政和温泉付近)

原生林の中を朱鞠内へと向かう列車。
列車は政和温泉の駅の跡をかすめて一路北へ・・

Shinmei_scene12

(幌加内峠付近)

幌加内峠を越え若い気動車と老兵のコンビ。
北海道の鉄路を語る2両の息のあった一コマ。

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(上幌加内)

Shinmei_scene14

(上多度志)

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(共栄)

 

 

何もかもが懐かしく感じられる、けどちょっと寂しい光景。それが深名線の光景でした。

今は全て、想い出の世界へ・・・・・・・

 

【思い出の鉄道写真館】深名線(1)=The SCENE~ようこそ、深名線の世界へ=

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ようこそ、想い出の鉄道写真館・深名線のページへ。

すでに想い出の世界へと去ってしまった鉄路、深名線。

このページはその想い出の世界へと誘うページです。

※深名線は1995年に廃線になりました。その数年前に数回通った時の記録です。

(写真はクリックすると拡大します)

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(朱鞠内駅 キハ53-500)

古くくたびれた車両。けど年季の入ったその老兵の姿は
利用する者に確かな移動の手段を提供してくれました。

 

Shinmei_scene02

(沼牛駅)

埋まってしまいそうになった駅標。
わずかに見える標識は、そこに人間の
息づく確かな徴を主張しているようでした。

Shinmei_scene04

(政和~添牛内)

静かなる雪の世界の彼方から雪煙を上げて
近づいてきた汽車。凍てつく白銀の世界で一瞬、
そこに人が生きてる事を教えてくれる瞬間・・・。

Shinmei_scene03

(朱鞠内駅)

鉄路を守る人の想いはどこでも同じ。
少ないながらも人々の思いを繋ぐ鉄路を守る
ある意味どこにでもあった光景です・・・

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Shinmei_scene05

(2枚とも 丸山駅にて)

なんか、ほっとする瞬間・・・・・

鉄路の轍は一日数回の人の通り道。
あとは自然の中に溶け込んで・・・

 

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